生みの親 浅井一彦博士の物語

~アサイゲルマニウムの生みの親、浅井一彦氏の一生とその物語~

浅井一彦博士の物語

生誕からドイツまで

明治41年 3月30日、満州・大連で生まれ、10歳まで大連で過ごし、その後東京へ。
昭和 7年 東京帝国大学(東大)法学部卒業。 不況で就職困難な時代、苦労して外交官試験に合格。しかし、「官報」不記載という極めて稀なミスのため合格がうやむやになる。
昭和 9年 外務省に入らず、大倉組に入社。商事部よりドイツ駐在員としてベルリンへ派遣される。
昭和11年 石炭研究の道 11月 秘書であったエリカ・フェルターホッフと結婚。 ベルリンには日本大使館に大学時代の仲間などもいたが、強度の神経衰弱となる。ある日、ドイツ人青年に連れられ、炭鉱内で自然を相手に必死に働く人々の姿を見せられ、衝撃を受ける。それまでの生活を一変させ、石炭研究の道へ進むことを決意する。
昭和12年 石炭の研究を深く進めるためにベルリンのシャロッテンブルグ工科大学に入学。
昭和16年 7月、3年間で15単位取得、1年の実習をすませ、最後の仕上げの段に入った時、ヒットラー総統がソ連侵略を開始。英米機によるベルリン空襲が激化したため、妻子、義母を疎開させ、一人で学業の仕上げに専念。
昭和18年 ベルリンのシャロッテンブルグ工大鉱山冶金科修業、エッセン公立石炭研究所に入所。ベルリンにて爆撃を避けてアパートの地下室に避難するが、この建物の6階屋上が焼夷弾によって延焼するのをくい止める大活躍をする。奇跡的に一命をとりとめ、ドイツ陸軍病院へ運ばれて大腿骨骨折の手術を受け、入院する。その勇敢な働きにヒットラー総統より剣付鷲十字勲章が贈られる。
昭和20年 5月、ベルリン陥落、ドイツ降伏。南ドイツに疎開させた妻子と合流すべく車で向かう途中、知人宅の地下室に避難しているところをソ連兵に捕らえられ、ドレスデンの監獄へ送られる。正式な外交官任命はされなかったものの、パスポートは外交官として発行されて所持していたため、それを軍人に見せる機会に恵まれ、モスクワのゲー・ペー・ウー本部に移送される。数日拘留された後、「拘留したのは大変な間違いだった」と釈放され、モスクワの日本大使館へ送られる。
家族との再会のため、佐藤大使にドイツに戻ることを懇願するが、「貴重な研究を身につけたあなたは、一刻も早く日本へ帰してお国のために働いてもらわねば」と帰国を説得される。
一方で浅井の家族を想う意志の強さに打たれた大使は、特別にスイス、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの元首に浅井家家族救出保護を依頼してくれた。

日本での研究

昭和20年 7月、モスクワからシベリア、満州を経由して、命からがら帰国。
8月、終戦。敗戦後の日本復興のため、専門分野でもあり当時のエネルギー産業の根幹である石炭産業の復興を決意。
12月、資財を投じ、浅井一彦所長以下所員10名で、財団法人石炭綜合研究所創立。
昭和21年 石炭組織学の研究開始。
昭和23年 終戦後1年たっても状況がわからなかった妻子について、あちこち手を尽くした結果、国際赤十字を通じて、東ドイツでの生存を確認し、ドイツに赴いて救出することを決意。まわりから不可能といわれた米占領軍からの出国許可をとるべく、マッカーサー元帥の元を訪れる。本人には会えなかったものの強硬にねばり、直訴状を副官に言付けたところ3日後に出国査証発行の許可が下りる。なんとか旅券を作成してもらったが、ドイツに向かう交通手段がままならず、3ヶ月アメリカの貨物船を待つ間に、スイス国際赤十字社から妻子は無事にスイスへ救出され貨物船で日本へ向かったとの電報が届く。横浜埠頭にて4年ぶりに妻子と再会。
昭和24年 研究員の一人より、当時発明されたゲルマニウムトランジスターの将来性を考え、石炭中のゲルマニウムの研究を提案され、研究の開始を決定する。
昭和27年 1月、東京ガス大森工場内の回収設備にて、石炭ガス液より、初めて二酸化ゲルマニウム(GeO2)の回収に成功、の報告を受ける。
昭和28年 国際石炭組織学会日本代表として出席、東大第二工学部及び九大理学部の石炭組織学講座を担当。
昭和31年 二酸化ゲルマニウム果糖溶液のX線による放射線障害に対する治療効果が、動物実験により確認される。この際、二酸化ゲルマニウムが骨髄、脾臓、腎臓などに蓄積されることがわかり、水溶性有機ゲルマニウムの研究を始める。
昭和32年 各種の技術開発の業績に対し、紫綬褒章を授与される。
昭和37年 京大より工学博士の学位を受ける。
昭和42年 世界初、水溶性有機ゲルマニウム(アサイゲルマニウム)の合成に成功した事を日本化学会に発表。
燃料協会賞を受賞。
長年の肉体的疲労と精神的ストレス、全身の多発性リウマチ、痛風などにより病床に臥す。この時、初めて化学合成された有機ゲルマニウムの水溶液を、一片の疑いも持たずに自ら服用。10日後には散歩ができるまでに回復し、自分自身の体でその効果と毒性・副作用がないことを確認する。
昭和43年 浅井ゲルマニウム研究所設立。
昭和45年 水溶性有機ゲルマニウム(アサイゲルマニウム)の研究開発開始。
昭和50年 1月、ニューヨーク・アカデミー・オブ・サイエンスの正会員に推薦さる。
9月、著書が出版される。フランスで開かれた世界自然医療学会に招かれ、有機ゲルマニウムに関する講演を行い、反響を呼ぶ。 株式会社浅井ゲルマニウム研究所設立。浅井博士から所員へ贈られた直筆メッセージ 次世代を担う若者たちへの期待と鼓舞が込められた言葉です。
昭和53年 著書2冊目出版。
昭和54年 6月、第1回ゲルマニウム研究会開催。全国の大学、研究機関の研究者とともに、本格的な有機ゲルマニウムの生物活性研究が開始される。
昭和56年 著書3冊目出版後、無理がたたり、体調を崩す。
昭和57年 10月、永眠。享年75。

“私のゲルマニウム”を幸せを願う人々へ

浅井博士

その後、アサイゲルマニウムの開発・研究は浅井博士が創設した(株)浅井ゲルマニウム研究所に引き継がれ、健康食品や化粧品の原料という形で提供されるようになりました。
現在では、あらゆる体調の方から健康な方まで、誰でもアサイゲルマニウムを利用することができます。
浅井博士の、「私のゲルマニウム」を人々の健康に、ひいては人類の幸福に役立てたいという執念ともいうべき情熱が、アサイゲルマニウムを生み出すパワーの源となったのです。



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