2009年 夏
松谷みよ子 Miyoko Matsutani
作家。1926 年東京生まれ。坪田譲治氏に師事し、1951 年『貝になった子供』で第1回日本児童文学者協会新人賞、1962 年『龍の子太郎』で国際アンデルセン賞優良賞、他受賞多数。以後、『ちいさいモモちゃん』シリーズをはじめ、童話、民話、絵本、小説、エッセイなど著書多数。「松谷みよ子民話研究室」「日本民話の会」「本と人形の家」など幅広い活動を展開、継続。長野県黒姫高原の黒姫童話館に「松谷みよ子の展示室」がある。公式HP http://matsutani-miyoko.net/参照
モモちゃんっていうのは長女のことなんですけど、「私の赤ちゃんの時のことをお話して、書いて」と頼まれたんですよね。それで書き始めたの。その頃「育児日誌」をつけていたんですね。それをめくると、その時その時の状況が思い出されるので、そうでなかったら書けなかったと思うんですよ。だから育児日誌をつけたっていうのがとっても私にとっては大事なことでしたね。育児日誌といっても何も丁寧に「今朝何時に起きて、ミルクをどのくらい飲みました」なんて細かく書くわけじゃなくて、これは若いお母さんたちにもお勧めしたいんだけど、子供が言ったいろんな言葉を書き留めているだけでも育児日誌になると思うんです。大人が考えもつかないようなことや、グサリとくるようなことも言うし、そういう言葉とか、しぐさとか書いておくだけで十分その頃のことが思い出されますものね。
普通は児童文学では書かない内容ですけど、うちは本当に離婚したのでね。「うちにはなんでパパがいないのか、まだ書いていないから、そこんとこを書け」って子供に言わ れたんですよ。本当はあんまり本にしたくなかったけど、そういうご命令でしたから。それで3冊目を書きました。あとでずいぶんお手紙が来て、「うちの子がベットで本を抱きしめて泣いていて、何だろうと思って読んでみたら…、うちもいま離婚したところなんです」とかね。ああいう形で離婚を書いたっていうのは、その時は皆さんが大変衝撃的で、子供の文学で離婚なんて書かな いもんだと思ってたんですよ。子供に言われなかったら私も書かなかったかもしれませんよね。
言い方もあると思うんですね、別れた夫の文句を言ってたんではやっぱりまずいと思うんですよね。例えば、夫婦のことを歩く木と育つ木っていうふうにね、木にもいろいろあって、歩く木もあるでしょうけど、そういうふうに言わないとわかってもらえないかな、と思って。だから書いたら娘は何も言わなくなりました。
赤ちゃんのために絵描きも本気、作者も本気でつくった本っていうのはなかったですね。赤ちゃんが読み手の対象になるって誰も思わなかったんじゃないですか。絵描きさんも本気でやってくれないと困るんですけど、瀬川康男さんが「おれにやらせろ、描いてみせる」って名乗り出たんですよ。彼は夫の友達で、もう長い付き合いでしたけど、大人っぽい絵を描いていましたから赤ちゃんの本が描けるとは思わなかったんです。余計な背景は何もいらない、それから横を向いていても目はちゃんと赤ちゃんの方を見てちょうだいというふうに頼んだら、見事に「いないいないばあ」ができたんですよね。ちょうど同じ頃に康男さんとこも赤ちゃんが生まれたから実感はあったのね。やっぱり子育てをした中でだからできたんだと思うんですよね。始めは、いろんな場面があって、最後に「ばあ」って考えたんだけど、いや、そうじゃなくて、とにかくシンプルに全部「いないいないばあ」でいこうと思って、それがよかったと思います。
小さい時から本が好きで、親がいっぱい本をそろえてくれましてね、母親が「うちのことはせんでいいから本を読みなさい」って言ってくれたのね。その頃そういうことを言う親はあまりいなかったと思うんですけど、嫁にいけばなんでもできるからって。
当時、鈴木三重吉さんの「ぽっぽのお手帳」っていう作品を読んだんです。すずちゃんっていう赤ちゃんが生まれた時に、2羽のぽっぽ(ハト)がとっても喜んで、お母さん がぽっぽから赤いお手帳をもらってすずちゃんがしたことを書いている。すずちゃんが初めてハイハイして、ぽっぽのカゴのところに行って、「ぽっぽー」って、それがすずちゃんが最初に言った言葉でした、っていうお話。それを娘時分に読んで、今に自分に赤ちゃんが生まれたら、私もぽっぽのお手帳をつけようと思ったんですね。
だから文章を書き始めたのはまだ十代ですけどね。童話が好きだったから。児童文学ってその頃はいわなかった、童話って言ってましたね。小説を書こうと思ったこともあるんですけどね、信州に疎開した時にいろいろあって、その人間関係を、まだ十代の娘ですからじーっと見てる。そしていっぱい書きたくなることがあるわけでしょ。だけど、それを書くと誰かが傷つくなと思ったんですね。それで、童話のかたちをとれば人を傷つけないという気持ちがあって童話にしたんです。小説もそのあと書きましたけれど、その頃はそう思ったんですね。その 頃書いた少し大人っぽい短編なんかには、何か人間を見ると全部動物に見えてくるっていうような怖い話も書いているんですけどね。やっぱり人間が戦争で追い詰められて飢えてくるといろんな面が出てくるもんですよ。だからそういうのも若い娘ですからね、すごく感じるのよね。
私が育った頃は、小川未明の童話( 「赤い蝋燭と人魚」他)なんかがあって、あれがもう大人が読む童話みたいなものでしょ。それからアンデルセンでもそうですよね。赤ちゃんや小さい子に読んで聞かせるものとは違う。だから童話の形をとった文学、というふうに私は捉えていたから、子供が読むものっていうふうには限定してなかったですね。
苦労というのではなくて、当時、木下順二さんが民話についての理論をお書きになって、とにかく理論書がとても流行って、民話の再創造とかいろんなことが言われていたんですね。ただ、私の夫だった人が、「理論じゃない、自分で村へ訪ねて行って、直に話を聞かなきゃだめなんだ、民話っていうのはそういうもんなんだ」とさかんに言ってたんです。結婚前の3年間、私は療養所にいて肺を切る手術をして、術後1年たたないうちに結婚してね。それですぐ、坪田譲治先生にお金を借りて村へ行ったわけですよ。だけど、それが結局私にとっての財産になってきましたよね。やっぱり村へ行って直にいろんな人と接して、話を聞いて良かったなと思いますね。じかに話を聞くっていうのと、資料だけ読んでいるとじゃ全然違いますものね。
信州の上田の方の話で「つつじの娘」っていう話があって、恋人のところに行くのに両手に一握りずつもち米を握って、山を五つ越えて走っていって、ぱっと手をひらくと餅になっている、っていう話。それをね、丸木俊さん(「原爆の図」で知られる画家)が好きでね、その絵本を描きたいっておっしゃって。描かれてびっくりしたのは、その娘が米を握って空を飛んでいくわけですよ。「先生、これね、足から血を流してもね、走って山を越えて行ってほしいの。飛んでると妖怪になっちゃうんですけど」ってね(笑)。
ええ、子供たちが勝手に本を読んで、勝手に遊んでね。お母さんたちには交流の場になっているようです。自分がこの文庫に来ていて、大きくなって結婚して、今度は赤ちゃんを連れてきているというふうにね。長いから、ここ、40年ぐらいになるかな。人形劇ができる舞台があったり、講師が来てお話の勉強会を開いたり、語りをやったりするんですよ。私も予定がない限りは文庫には必ずいますので、皆さん、逆にびっくりするんです。いるとは思わないらしくて(笑)。
夏には夕涼み会というのがあって、語りの会の方が怖い話の語りをやって、帰りに子供たちにほおずき提灯に火を灯して1つずつプレゼントするんです。結構風情があるんです。みんな浴衣なんか着て、ほおずき提灯を持って歩くとかわいいんですよ。冬にはもう一つのスタジオの方で、人形劇団が来て人形劇をやります。
私にはそういう理屈はわからないけど、私が人形劇が好きなのは自分が出てやるのが恥ずかしいからでしょうね。私はちっちゃい時に人形劇を見てね、江古田のかわいい教会の小さい舞台で。靴屋のマルチンが天使に呼ばれて、つまり聖書の中のお話ね、天使が「マルチン、マルチン」って呼ぶんですよ。そうすると靴屋のマルチンが起きて天使様と話すんだけど、それがとっても印象的でね。いまに、ああいう人形劇をやりたいなと思ったんですよ。人形劇はなかなか見られないかもしれませんけど、生で見るとね、声も生ですしね、違うのよね。
黒姫高原に童話館っていうのがあるんですよ。ミヒャエル・エンデの部屋があって、私の部屋があって、舞台もあってね、映画や絵の展示会なんかが催されたり、民話の会の語りの人たちが夏に語りもやるし、私も毎年講演をやるんですよ。日本のスイスみたいな本当にいいところです。
そうですね。でもそんなことはもう何も考えないで、ただ楽しんでやっていると、子供たちも楽しんで来てるって感じですよね。あんまり理屈はないのね。皆さん、お当番で黙ってても来て、お掃除して、本を入れたり、自然にやっているんで、私もあんまり気張ってやってませんね。招集かけるとか、広告するとかじゃなしに自然に子供たちが来てるんです。だからここに来ている子も、小さい時に見た人形劇とか、紙芝居とか、お遊びとか忘れないと思いますよ。
昔話を語る「語り手」っていうのが村々にいるわけです。私たちはそういうのを聞いて資料集を作ったりするんですけども、今だんだん語り婆さっていわれる語り手が減って、若い語り手ができて、つまり私たちが生きて言葉を持っている限り、誰でも語り手になれるわけでしょ。だけど爺っさや婆っさから習って、聞かされて、自然に語り手になる人と、自分で勉強して語り手になりたい人とが今はいるわけですよ。いろんな語りがあって、なかなか面白いですよ。
やっぱり言葉がね、言葉で伝えるっていうのはとっても大事だと思うんですね。だから自分で読むのもいいし、読んであげるのもいいし、本は置いて語ってあげるのもいい。 童話を全部自分で覚えて語る運動をしている人もいるんですけど、私たちは昔話を語って聞かせているんですね、語り手になって。だから新しい語り手ですよね。読み聞かせのコツなんて私はそんなのは勉強してないから、いいかげんでやってます。あんまり感情を込め過ぎちゃうと嘘っぽくなっちゃうような気がするから、淡々と読んだり語ったりする方がいいんじゃないですか。
そうですね、そういう時代だからっていうのがもうずいぶん長いですけどね、必ず戦争のことを語りたいっていう人も一緒に語りますから。大人でも子供でもいいんです。理屈じゃなくて、自然に話したり、書いたりしてるんです。あんまり理論的な人じゃないから。書きたいから書いたの。それしかないですよ。あんまり何かを伝えるために何かをしようなんてことやらない人だから。そこから持っていくと理屈でしょ。
十代で体験してますけども、やっぱり戦争っていうものに出会ったっていうのが一番大きいですね。毎日空襲警報聞いて、防空壕の中で小さな甥を抱っこして、いつ爆弾が落ちるかと思っていた恐怖っていうのはね、そこをくぐってきてますからね。買い出しに着物か何か背負って行ってね、草取りを手伝ったりしてやっと大根を譲ってもらうんですけど、その帰りに空襲に遭ったりして芋畑の中でどこへどう隠れていいかわからないような、そういう思いをしてきましたからね。
神田の事務所がまず焼けて、それから江古田の家2軒が空襲で焼けて、疎開しなきゃならなくなったわけ。姉が信州の善光寺傍の知人を頼って先に子供を連れていったんですね。でも疎開するったって、荷物を鍋釜から背中に背負って、両手に下げて持っていかなきゃならないわけ。私が一日おきに荷物を運んでね、よろよろと。長野駅からの坂道が長いんですよ、それを3歩歩くとハアハアってぐらい重いんですよ。何も食べてないわけですから痩せこけててね。それでも交通公社にいたから鉄道の定期があったけど、それがなかったら切符が買えない頃ですからね。汽車に乗るのも窓から出入りするくらい混んでて、だから横川で窓から降りて、横川のおいしい水を1杯飲むのだけがせめてもの楽しみでね。
でも何があってももう「あぁそう」てなもんですよ。「うちが焼けました」「あぁそう」ってね。いちいち深く感動したり、泣いたりしてたら暮らせないもの。もう無感覚になって「あー、うちが焼けた、あははー」なんて。兄の出征を見送っても「いってらっしゃい」って、無感動にならなきゃ生きていけないのよ。まあ、本当にすごい時代でしたよ。
そうですね、「何かしたい」っていう気持ちが身体の中にあるからでしょうね。やっぱりそれは戦争をくぐってきた強さですよ。それが今につながっていると思います。